脳出血から生還~日々続くリハビリを記録

55歳の働きざかりで、脳出血で緊急入院。もう一度「ロードバイクに乗りたい」「ツールド東北に出たい」男の闘病記。

永遠のゼロ? (同じ病棟のハチローさん)

永遠のゼロ?!ハチローさんとゆっくり話をした。
 
文句ばっかり言っていたが、
私が海軍時代の話を聞きたいというと、
彼の半生を面白可笑しく話し始めた。
 
骨折して、いまハードウエアが駄目だが、
ソフトウエアは大丈夫です。
 
などと、およそ95とは思えない用語を使う。
 
また、ハチローさんは、新聞を老眼鏡なしで読む。
さてハチローさんは海軍の予科兵学校から
江田島海軍兵学校に進んだとのことでした。
 
戦況が悪化し、二年時に土浦航空隊に配属された様です。
 
その後台湾の航空隊に転属され、
米国のグラマンf4f通称ワイルドキャットと
19年10月に初手合わせをしたそうです。
 
当時数え19歳。どうでしたかと聞くと、
逃げるのが専門で、ベテランの先輩に任せて
いたと笑いながら話します。
 
ゼロ戦は回転半径が小さく助かったと。
兄二人も、江田島海軍兵学校の卒業生で、
上の兄は真珠湾攻撃に参加、各地点戦後ラバウル航空隊に所属し戦死。
もうひとりの兄は、台南航空隊に所属し、
シンガポール攻略戦に参加。その後南洋で、
戦死したそうです。
 
ハチローさんも今少し終戦が長引けば、
特攻に送られたかもしれないと言います。
 
終戦後は、建設省に努め、
仙台バイパスの建設などに関わったそうです。
 
昭和2年生まれ、耳は少し遠いものの、
胆力は凄まじく、人生100年時代ですから、
今少し頑張らねばなりませんと語ります。
 
しかし、ハチローさんの兄二人は、
海軍兵学校の65期と70期だそうですが、
若い盛りに命を散らします。
 
ハチローさんが、艦船のガンルームや、
ゼロのコックピットで過ごした青春を語る今が、
ハチローさんにとっての春なのかもしれません。
 
まあ、生き残ったから、
笑って話せるけどといいながら、
何処と無く苦しそうに語ってくれました。